少女隊って結構すごかったんですね!!
- 2014/9/5
- 02 長崎音楽日記
- 少女隊, 戸倉俊一, 秋元康
- 3 comments
昨日(9/3)の記事で、レコーディング体験記を書きました。
クライアントのイメージが少女隊の「渚のダンスパーティー」という曲でした。
正直、筆者は「少女隊」という女の子3人のユニットを全然知らなくてこのレコーディングの話しを頂いてから初めて知ったのです。
それで記事を書いていて、改めて「少女隊」を調べてみましたら、いろんな面白いことが分かりました。今日はその「少女隊」について書いてみたいと思います。
戸倉俊一氏プロデュース
少女隊は1980年前半にオーディションで選ばれた3人で結成されたユニット。くくり的にはそのルックスからしてアイドルなんですが、実は、総合プロデュースを当時、J-POP音楽業界の既に重鎮であった戸倉俊一氏がつとめ、アメリカの一流ミュージシャンが参加し、なんと!ロスアンジェルスでのレコーディング。オールアメリカロケのイメージビデオそして写真集を同時発売するという、一大プロモーションを行った新人アイドルとしては異例の企画だったようです。そのプロモーション総額が当時のお金で3億円!とこれまたビッグだったのです!!
戸倉俊一氏は、世界に通用するアイドルユニットという構想を描いておられたようで、TVの露出をおさえライブ重視の戦略だったようです。しかし、これは当時は時期尚早。結果、日本国内ではブレイクまで至らなかったようです。
秋元康にバトンタッチ
このような経緯から1980年代後半、秋元康にバトンタッチされ、新たなプロモーションに舵を切ることになったようです。秋元康は、ことアイドルの売出しには非常に長けた人物で、この少女隊も当時の人気番組、「ザ・トップテン」に初ランクインさせ、ドラマとのタイアップなどが功をそうし、ジワジワと人気も上々してきたのです。
このような実績ではまだ荷の重い(国立代々木競技場)と(大阪城ホール)でのツアーを敢行するなど話題豊富。しかしながら、メンバーの一人が椎間板ヘルニアを患い降板。。。などなど不運な事も重なり、日本国内での活動や人気もフェードアウトしていくことになります。
アジアで人気に!!
しかし秋元康のただならぬプロデューサーの手腕が発揮されることになります。当時として、異例中の異例!なんとアジアのマーケットに向けて打って出たのです!戸倉俊一氏がプロデュースの時から、世界戦略の一環でアジアでの活動はあったようですが、秋元康に交代してから、アジア各国で人気を博することになったワケですから、秋元康のプロデューサーとしてそしてマーケッターとしての手腕は大したものだと思います。この戦略は現在のAKB48にも脈々と受け継がれていますね。
韓国でも大ブレーク!
1985年には香港で映画デビュー。翌年には大規模な東南アジアツアーを成功させ、香港、タイ、シンガポール、マレーシアなどアジア各国でブレークしたそうです。
そして1988年、ソウルオリンピックのイメージソングを歌い、韓国でも大ブレークに!!当時、日本語の曲が禁止されていた韓国において、これも異例中の異例だったようです。
しかし、日本国内ではこのようなことはほとんど話題にならなかったのではないでしょうか。。。。筆者もうっすらユニット名の「少女隊」というのは憶えているのですが、どんな曲を歌っていたのかすら憶えていませんでした。
改めて聴いてみましょう。
少女隊の動画はYouTubeにも少ないですね。もしかしたら海外のYouTubeには公開があるかもしれませんね。
FOREVER〜ギンガムチェックstory〜がYouTubeに公開されてました!!
聴いたらぶっ飛びました!!!
戸倉俊一氏の作曲なんですが、イイ意味での和洋折衷!!
演奏は一聴して、当時、もてはやされていたまさにLAのサウンド!!
楽曲を歌いこなすにはまだ若すぎでちょっと荷が重たかったかな。。。。楽曲がイイだけに非常に惜しいと感じました。
当時としては6分近くの長尺の曲も異例かも・・・しかも3分バージョンもありましたよ!LAの演奏を楽しめる6分バージョンをお聴きください。
曲と演奏ともにイイですねぇ。。
ということで本日はこれまで。
コメント
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コメント (3)
なるほど、この時期から世界戦略があったんですね〜
勉強になりました。
^_^
寿さん、コメありがとうございます。
当時、世界戦略とか、、、戸倉俊一さん、凄い方ですね。。
戸倉→都倉
お元気ですかマイフレンドは都倉、秋元関係ないです
アジア進出も秋元関係ないです
秋元はそんな深くはかかわってません
安原相国っていう在日コリアンのボンド企画のえらい人のやったことです