1974年 メディアに酷評され苦戦を強いられたクィーンの紆余曲折

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ブライアン・メイは自作のギターをひっさげて変幻自在のサウンドを奏でた。さらに彩りを添えるコーラス・ワークの美しさ。

そしてフレディ・マーキュリーのドラマティックなヴォーカル・・・

70年代に登場したロック・バンドの中でひときわ華やかな個性を放ったバンドこそクィーンであった。

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クィーンを襲った酷評の嵐

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デビュー作である「旋律の王女」が発売されたのが1973年。

当初は「これが売れるワケがない!」と酷評され、シングル曲、「炎のロックンロール」もBBCラジオのプレイ・リストから外されるなど、何故か英国メディアの扱いは散々なものであった。

当時としては音の加工(エフェクト)が多く曲構成も複雑で、当時のイギリスのメディアからは批判され、先行シングル「炎のロックン・ロール」共々、発表当初はチャート入りを逃したが、アルバムは『クイーン II』発表後にチャート入りした。

しかしながら当時からアメリカや日本での評価は比較的高く、ギターオーケストレーション、重厚なコーラス、クラシック音楽を基調としたハードロック、ピアノをフィーチャーした曲、ドラマチックな曲展開など、クイーンとしての音楽的要素はすでに備わっている。

更なるアクシデント

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クィーンの2作目が「クィーンⅡ」。

アルバムA面はブライアン・メイの手による明るめの曲を軸に構成した「サイド・ホワイト」、B面はフレディ・マーキュリーによるヘヴィでスリリングな展開の曲を配置した「サイド・ブラック」に分かれていた。

前作でレッド・ツェッペリン顔負けの重厚なサウンドに神話や伝説を織り込んだ。白と黒、生と死の対比によりそのサウンドの荘厳さはいっそう際立つ結果となり、プログレシヴロックの重鎮的存在になっていたイエスとも比較されるまでになったのだった。

全英でいくらか好評を得、臨んだ「全米ツアー」。クィーンはこのツアーで全米で大きな成功を掴むハズであった・・・

しかし・・・

ブライアン・メイが伝染性肝炎の病に倒れ、全米ツアーはあえなくキャンセルというアクシデントに見舞われたのであった。

全てが灰となった中から不死鳥は蘇った。

クィーンはこのままフェード・アウトするのかと思われた。

しかし彼らはすぐに新作のレコーディングを開始、この年の11月に早くも3作目のアルバム、「ツアー・ハート・アタック」を発表。シングル・カットされた「キラー・クィーン」は全英2位のヒットを記録した。

そして、翌1975年。ついにロック史上に名を残すことになる名作アルバムが生まれたのだ。

そのアルバムのタイトルは「オペラ座の夜」

全英1位を獲得したこのアルバムのハイライトとも呼べる曲、「ボヘミアン・ラプソティ」は当時のシングル曲としては異例中の異例のその尺、6分にも及ぶ大作であった。そして9週連続全英1位を記録することとなる。

全てが灰となったクィーンが再び不死鳥として復活したこれはクィーン史に残る”事件”であった。

曲の構成は冒頭から順に
アカペラ
バラード
オペラ
ハードロック
バラードである2.の延長
となっている。
ヒットしたためにステージ演奏が要求されたが、当然バンドのメンバー4人での通奏や完全再現は不可能であった。
初期のステージでは分割した形で、2.と4.とをそれぞれ、別々の曲と組み合わせた、メドレー形式として演奏された。
その後、中期以降においては、ほぼ1曲通して演奏されることとなったが、1.は省略して、2.のイントロ相当部分のフレーズの繰り返し、ないしは独自のピアノ弾き語り部分を、冒頭に付加して行われた。
3.はテープのみを流し、その間に、衣装を変えて再登場して4.以降をライヴ演奏するなどの視覚的効果も加えられた。

日本への特別な想い

英米でその人気を不動にするまで苦戦を強いられたクィーンであったが、海を隔てたここ日本では状況が違っていた。

英国から遅れること半年。1974年の3月に「戦慄の王女」は発売された。同時に日本国内では若い女の子の間で「新世代のロック・アイドル」として人気沸騰に!

1975年の初来日、日本公演の武道館は黄色い声援がこだました。クィーンは熱狂的な歓迎をうけたのであった。そんな日本の状況をクィーンのメンバーがどう捉えたかは定かではないが、1977年発売の「華麗なるレース」に”手をとりあって”の曲が収録されているが、これは日本のファンへの感謝を込めて日本語で書かれた曲である。

終わらないクィーン伝説

アルバム「オペラ座の夜」以降の快進撃はロック、ポップスファンの間では知らぬ人はまずいないだろう。世界的ロックバンドへと登りつめ、グリーン・デイなど後発グループに与えた影響は計り知れない。

第一次の黄金期が1974年から1979年頃まで、第二次黄金期が1980年から1986年頃までと言えるだろう。そして、ボーカルのフレディ・マーキィリーのエイズ感染告白とその死によって、1991年、クィーンは終わったかに思えた。

寡黙なベーシストでありながら、隠れたメロディメーカーでもあったベースのジョン・ディーコンの引退も追い打ちをかけた・・・ように思えた。

しかし、クィーンとポールロジャースにより、クィーンは再び復活を果たす。2010年以降はブライアン・メイとロジャー・テイラーの二人によって今なおクィーンは存続している。

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